「ノラや」(内田百閒 筑摩書房)
猫が重要な役割を果たす小説ですが・・・
その役を猫が担う、という点に於いて先駆けだと思います。
しかし、猫が対象でなくても成立する、とても普遍的な感情に基づく物語です。
それは
愛するモノの消失
その結果としての、悲しみ。
人間相手なら、ありふれたテーマ。
しかし、この作品で内田先生の
愛の対象として描かれたのは
「ノラ」と「クルツ」と名付けられた
猫たち。
ここで重要なのは
内田先生は決して猫好きではない。
私は、この作品のあらすじは知っていたので、てっきり内田先生の事を
大の猫好き
そう思っていましたが、そうではなかったんですね。
例えば・・・
ノラやクルツと出会う前の話ですが
飼っていた鵯(ひよどり)を野良猫に殺された時の内田先生の反応
・・・敢えて書きませんが
「そこまでやらんでも」(幸い未遂に終わりますが)
内田先生の猫に対するスタンスは・・・
「私は今まで、子供の時家に猫がいた事は覚えているが自分で猫を飼って見ようと考えた事もなく、猫には何の興味もなかった」(55ページ)
そして、こう、はっきりと明言しています。
「実は私は猫が好きではない」(299ページ)
しかし、ノラとクルツについて
「この二匹の猫が大切なのであって、その外の優秀な猫、珍しい猫、或いは高価な猫などには何の興味もない。ノラもクルもどこにでも、いくらでもいる駄猫で、それが私には何物にも換えられないのである」(243ページ)
どうして、そうなったのか?
それを描いた小説です。
猫好きが猫に対する愛情を謳い上げた作品ではなく
一人の猫嫌いの中年男性が、ある対象に心奪われ、その相手が意外な事に、二匹の猫だった。
そういう物語です。
世間的には「猫好きの為の猫小説」・・・こんな風に位置づけられている様な気もしますが(?)
猫が嫌い、或いは興味ない
そんな方にも、お勧めです。
個人的に、この作品を読んで最も感銘を受けたのは
猫描写の巧さ
私如きが言うのも何ですが
流石です。
例えば
『「何しろ風呂桶の蓋がよくて仕様がないらしい。晩になって私が風呂に這入ろうとすると彼がその上を占領しているから摘まみだす。そうしておいて裸になって行くと、又這入って来る。仕方がないから又摘まみ出す。もう掛け湯をして、そこいらが濡れているのに又這入ってくる。這入ってきても、もう蓋はない。すると彼は風呂桶の縁へ上がって、狭い所で落ち着かない様に中心を取っている。猫と混浴するのは困る」』(50ページ)
・・・猫あるあるですよね。
当たり前のような顔して風呂場に入ってくる猫と困惑している内田先生の姿が目に浮かび、笑えます。
作者が猫という動物に対して何の思い入れもないせいでしょうか、描写が客観的なのですが、しかし、それで浮かび上がってくるのは
猫好きには、お馴染み定番の
猫おもしろ。
個人的に一番気に入ったのは
「よそから来る猫の中に、一匹すごく強いのがいて、玉猫でこわい顔をしている。ノラはその猫には丸で歯が立たないらしい。一声二声張り合っている内に、いつでもギャッと云わされて逃げて来る」(59ページ)
「玉猫」と言う語感にまず笑ってしまいますが、しかも「こわい顔」
この猫は・・・
「玉猫の悪い奴」(59ページ)
こんな表現もされますが
自分の縄張りに入って来たノラに対して正当な反応をしてるだけで全然悪くないですよね。
個人的には、この作品に出てくる猫の中で、この「こわい顔の玉猫の悪い奴」が一番好きです。
最後に、この作品未読の方に言っておきたい事。
第五章「竿の音」までは、あまり面白くないです(私にとってはそうでした)
この作品が本領を発揮するのは第六章「彼ハ猫デアル」から。
ま、最初から面白くて引き込まれたよ
そういう方もいらっしゃるかも知れませんが
私は最初の数章で読むの放棄しようかと思いました。
そうしなくて良かったです。
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