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2019年1月5日土曜日

新元号が発表される前に改めて過去を振り返って見ました


年末から数日帰省してました。



大阪の河内長野市です。



元は山だったのを数十年前に住宅地として造成されたので坂の多い所です。

生まれたのは、そこではありませんが長年住んでいたので感覚的にはマイ・ホームタウンです。


住めば都と言いますが、とても愛着のある地域です。





新年早々、実家周りをウォーキングしました。


久しぶりに懐かしい地域を散策してみたかったのですが、途中である場所にまつわる記憶が蘇りました。

何故か急に、そこに行かなければならないと言う衝動に駆られたのですが

その場所には幹線道路と並行して山の中を通っている細い道を進んで行くと辿り着く事ができるのですが、訪れるのは多分十年ぶりくらい、果たしてまだ存在しているか否か・・・

ありました。

冬空の下、忘れられた様な墓地が・・・


ご覧の通り墓地です。





この墓地の特徴は、祀られている方々が全て

戦没者だと言う事です。

この地域から出征された方々が眠っておられるのでしょう。

個人的な血縁者のお墓がある訳ではありません。

昔、偶然この場所の存在を知り、近代史に興味があるので印象に残っていただけです。



それぞれの墓石にお名前戦没年戦没地享年が刻まれています。(碑文に戦死した時の状況が含まれている場合もあります)


これらは薄れかけていたりする上に旧漢字だったりもするので判別しにくいのですが・・・

刻まれている最も古い元号は明治です。

日清日露戦争の戦没者でしょう。

これらは墓石自体が劣化していて時間の流れを感じます。

昭和になると戦没地に中国が増えてきます。

戦争末期になるとニューギニアビアク島が多くなります。

戦死の状況には野戦病院での戦病死がかなり含まれています。

享年は十代後半や二十代だけではなく、戦争末期には三十代後半の方もいらっしゃいます。



墓地は元日の朝に掃除されたばかりのようでした。


遺族の方々が管理されているのでしょうか?

砂利には人が足を踏み入れた跡は全くありません。

地域の方々は、この墓地の事をご存じなのか、関心をお持ちなのか・・・




元日と言う事で幹線道路の交通量も少なく、辺りは静かでした。


墓地脇の細い道を通る方も殆どいません。

私が、そこに到着した時、家族連れらしき数人が通りかかり、その後約十分間、人通りはありませんでした。

穏やかな冬の午後改めて一柱ずつ碑文を読みながら様々な事に思いを馳せました。

前夜、紅白歌合戦秋川雅史さん「千の風になって」を聴いたばかりでしたが、その歌詞が頭をよぎりました。

死者の思いは知る由もありませんが、ここに遺骨が存在しない方が多いのは確かでしょう。

今も中国大陸やニューギニア等南方の島々に残されたままなのです。


立ち去り際、並ぶ墓列に向かって黙祷しました。


寒かったのでニット帽にマスク着用のままだったので無礼非礼ですが、大切なのは気持ちだと勝手に思ってます。




最近、新元号の話題が良く取り沙汰されていますが、明治、大正(シベリア出兵)、昭和には、この日本にも


戦死


こんな死の形があったことを再認識しました。


平和の重み、ありがたみも。




河内長野市某駅付近で見かけた猫


見た感じ飼い猫でしょうか?寒いのに外に出るのか?とは思いますが










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