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2018年10月15日月曜日

森見登美彦さんの「夜は短し歩けよ乙女」の感想



森見登美彦さんの「夜は短し歩けよ乙女」(角川文庫)を読みました。


感想・・・


心地良い夢のような物語です。

精神的に疲れてて安らぎが欲しい方にお勧めです。

あとリア充じゃない人。




舞台は現代の京都。



携帯が出てこないので1980年代後半だと推定されます。

主人公は「私」という大学生。

但し、冒頭いきなり、こう語ります。

「これは私のお話ではなく、彼女のお話である」(7ページ)

「ついに主役の座を手にできずに路傍の石ころに甘んじた私の苦渋の記録でもある」(7ページ)

記録?

要するに「私と彼女のBoy Meets Girl」物語です。




「彼女はクラブの後輩であり、私はいわば一目惚れしたのだが未だに親しく言葉を交わすことができずにいた」(10ページ)


今時の若者らしからぬ(?)キャラですね。



そういう「私」が取った行動は

「ナカメ作戦」

「ヤシマ作戦」ではありません。

これは、「なるべく彼女の目にとまる作戦」を省略したものである(156ページ)

・・・

この作戦は「外堀を埋めるだけ」だと自覚していた「私」ですが、結局

「彼女と出逢って半年以上、私が外堀を埋める機能だけに特化し、正しい恋路を踏み外して「永久外堀埋め立て機関」と堕したのはなぜか?」

と自問するに至ります。

半年以上ナカメ作戦継続・・・



で、問題の「彼女」ですが、容貌についての詳しい描写はありません。


「黒髪の乙女」(78ページ)
この髪は第二章では「夏に合わせて短く切った黒髪がつやつやと光っている」(81ページ)と描写されます。
「小柄」(81ページ)
「色の白い」(89ページ)

こんな感じです。

キャラとしては所謂

不思議ちゃんです。


初登場シーンからして、大学クラブOBの先輩が結婚することになって、その内輪のお祝いの席で

「彼女は大きな皿の隅にちんまりと転がっている蝸牛の殻を、興味津々たる面持ちでじいっと見つめている。蝸牛の残骸に彼女がどんな面白みを見いだしているのか判然としないけれども、少なくとも眺めているこちらは愉快である」(10ページ)

歩き方も独特です。

「二足歩行ロボットめいた足踏みを見せてから」(12ページ)
「二足歩行ロボットのステップを踏みました」(13ページ)

この作品の初出は2006年なのでソニーのQRIOみたいな感じでしょうか?

ところで

二足歩行に関しての二つ目の引用は「彼女」が語っている自分自身の心理描写なのです。

「私」を語り手とした一人称小説かと思いきや、そうではなく「彼女」の心理も要所要所で語られます(他の登場人物の心理描写はありません)



「彼女」の不思議ちゃんキャラは随所に現れますが、それを詳述するのは未読の方の楽しみを削ぐ事になるのでやめておきます。

一つ挙げれば、「彼女」は大学学園祭会場である大学構内に於いて

「緋鯉を背負って達磨の首飾りをつけた女性」(199ページ)

として目撃される事になります。

ちなみに、緋鯉は学園祭の射的屋で手に入れた大きなぬいぐるみです。

不思議キャラでも現実にはここまでやる人いませんよね?






最初に、この作品を心地良い夢のような物語だと言いましたが、その理由の一つとして挙げられるのは

登場人物に悪人が一人もいない。



それどころか


全員善人



強いて言えば、「東堂さん」という「錦鯉を育てて売るという商いをしている」(15ページ)「中年の殿方」(14ページ 「彼女」の視点からの描写)

この男はバーで「彼女」をくどきながら、胸に手を入れて触るという行為に及びますが、基本的には娘思いの良き父親です。

ちなみに、この時の「彼女」の心理描写

「東堂さんは心の清い人ですから、公衆の面前で破廉恥な振るまいに及ぶわけがありません。おそらく私を励まそうと腕を回した際に、酔いも手伝って見当が狂ってしまったのでしょう。しかし私はどうにもくすぐったくて仕方がありません」(23ページ)

善人とか不思議ちゃんとかいうレベルではありませんね・・・

この時は「羽貫さん」という「背が高く、凜々しい眉の女性」(24ページ)の介入によって事なきを得ます。

一緒に「天狗をやっております」(26ページ)と自己紹介する「樋口さん」なる怪人物も登場しますが・・・

Wikiによれば森見さんは押井守さんの作品がお好きだそうですが、この「樋口さん」もしアニメ化されるのなら押井作品の常連千葉繁さんが声を担当されたらピッタリだなと思いました。

当て書きしてるような気もします。



「李白」と言うあだ名の老人は

「外見は優しいお爺さんですが、もの凄いお金持ちで、かつ血も涙もない極悪非道の高利貸という噂を聞きました」(107ページ)

「彼女」による「伝聞情報」で、こう語られ、債務者である「東堂さん」「樋口さん」は李白なる人物を畏怖していますが、「血も涙もない極悪非道」な面は全く描かれません。
と言うか、普通に・・・


好々爺です。




「夢のような心地良い物語」になっているもう一つの理由は



舞台の居心地の良さ

第一章の舞台である夜の木屋町から先斗町界隈、第二章の下鴨神社境内での古本市、第三章、大学構内での文化祭

全て、それぞれ限定された快適な空間です。

その最たるモノが李白なる人物の所有する

「背の高い電車のようなもの」(59ページ)です。

「それは叡山電車を積み重ねたような三階建ての風変わりな乗り物で、屋上には竹藪が繁っているのが見えました。
  車体の角にはあちこちに洋灯が吊り下げられて、深紅に塗られた車体をきらきらと輝しています。色とりどりの吹き流しや、小さな鯉のぼり、銭湯の大きな暖簾などが、車体のわきで万国旗のようになびいているのも見えます.
  幾つもある車窓の中には、居心地の良い居間のような明かりが満ちて、小さくも豪華なシャンデリアが電車の進行に合わせて揺れています。一階の窓からは、ぎっしりと本が詰め込まれた書棚や、天井から吊られた浮世絵が見えました」(59ページ)

こんなのに乗ってみたいとは思いませんか?

しかも、この「電車のようなもの」の中には宴会場銭湯まであるのです。



以下ネタバレ



「私」が「彼女」との初デートにこぎ着ける所で物語は終わります。

ハッピーエンド?

いや・・・

この物語のかなりの部分、特に「彼女」に関わる部分は全て「私」の妄想だと思います。

妄想だから善人ばかり登場する心地良い空間なのです。


「彼女」が、あり得ない位不思議ちゃんなのも妄想の産物故です。

「私」は、そういうキャラが好きなのでしょう。

「彼女」の心理描写は「私」の妄想。

「彼女」自身の歩き方に関する表現と「私」の描写が同じ(二足歩行ロボット)なのは、そういう理由だからです。

彼女の容貌についてほとんど描写されないのは言うまでもないからです。

李白なる人物の「電車のようなもの」にリアリティが全くない(見た目は電車に似ていても道路上を自走しているはず。かなり巨大な車両のはずですが動力は?三階建てなら電線との接触は?など幾つもありますよね)のも妄想故です。



最終章、「私」は空を京都上空を飛翔する夢を見て目が覚めると「彼女」が枕元に正座しています。

「しかし、君はなぜこんなところへ?」という「私」の問いに彼女はこう答えます。

「先輩が連れてきて下さったではないですか」

夢の中ではそうでした。

そして、それは醒めていないのです。

「私」は今も「廃墟に近い木造アパート」(247ページ。これは現実でしょう)で心地良い妄想に耽っているのでしょうか?




「彼女」視点で「私がトイレから出てくると」(172ページ)という描写がありますが、流石に「私」も「憧れのアイドルはトイレなんか行かない」レベルまでは現実感を喪失していない訳です。

学園祭の思い出に関して「私」は

「何もかもが嘘くさい。そんなことは本当にあったのか?ひょっとすると、私の個人的妄想ではないのか?」(252ページ)と自問します。

妄想に浸りきっているのはマズい。どこかでそう自覚しているが故にこういう自省めいた考えも生まれたのでしょう。しかし、妄想と言う事実と直面するのを避けているのです。


とても面白い物語ではあります。

特に冒頭挙げた二つの条件を満たしている人はとても楽しめる作品です。

私?






満喫しました。
































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